日本刀は古くからわが国が誇る鉄の文化財です。
<哀悼>
<公益財団法人 初代会長 小野裕様 逝って一年>
哀悼
膵臓癌で重篤な状態にあり、もう長くはない。
葬儀は密葬にするから、直ぐには皆に報せない。
人ごとのように淡々と語られたのは、お亡くなりになる9日前の昼食時、畏友對馬氏と小野前会長お気に入りの店にいたときである。
あまりの衝撃に二人は掛ける言葉もなく凍りつき、普段は能弁な小野前会長も視線を落とされたまま沈黙だけがしばらく続いた。
味わうどころではなかった食事を済ませると小野前会長の新居へと場所を移し、夕方まで持参した刀・小道具を前にあれこれと歓談して暇を告げる際、今となっては最後のご依頼が一つあり、私からも小野前会長に顧問を務めて頂いている同好会の新年会ご出席をお願いした。
それから5日後、依頼事が遂行できたので新年会の手筈を電話でお伝えしたところ、受話器を通して楽しそうなご様子が伺えたが、それが最後の音信となり、翌日には救急車に運ばれ二度と口を開かれることは無かったと後日伺った。
不肖にして厳しいご指導やご鞭撻を受けるばかりであったが、先見性・洞察力に優れ、邪心や私利私欲を何よりも嫌っておられた人柄のせいか、不思議に叱られても意気消沈した記憶はない。
常々協会のみならず刀剣界全体の発展に心砕かれており、その補佐として微力ながらお手伝いできたことは無上の幸せであった反面、これまで蒙ったご厚情にはほとんどお返しできなかったことは正しく悔やまれるの一言に過ぎる。
そして今となっては形見になった刀剣書のペ-ジをめくるとき、仄かに漂う煙草の移り香から、在りし日のお姿を偲ぶ今日この頃である。
岐阜県支部長 近藤 邦治
<忘れられない人>
最初の対面は博多駅の筑紫口、「福岡に行くので会いたい」との協会会長の電話にびっくりして、何事かと約束の期日、指定の時刻にパナマ帽子をかぶって出向いた。
帽子は、遠目にでも小野会長の尊顔を私は存じているが、会長が私の姿を知っているはずがないので目印にしていただくつもりで私が申し述べ、かぶって行ったのである。
駅前のパーラーで、初対面なのに一時間半、話し続けた。
会長の話を聞くのがほとんどで、合間に受け答えをするだけだったが、楽しい時間だった。
九州ブロック大会を博多支部が担当することになっており、様子見をなさるつもりの面談だったのだろう。
別れ際、「九州ブロック大会をがんばってくれ、何ができるか、公益財団になって間が無く実績が無いので解らないが、しっかり考えてみるから」との温かい励ましを受けた。
この一言を私に告げる為においで下さったとすぐに解った。
以後、東京、名古屋、岡山、富山、岩国、そして岐阜と何度もお会いできた。
刀剣協会に在籍して四十数年になるが、雲の上の人としか思っていなかった協会会長に何の衒いもなく話ができている自分にびっくりすることもあった。
一度は岐阜の近藤さんに連れられ、会長の御自宅に伺い、蔵刀を鑑させていただいた事もあった。
平成30年1月19日、新刀剣博物館が一般公開される。平成28年7月7日、旧安田庭園での新刀剣博物館地鎮祭終了後、会長辞任届を柴原専務理事に提出されたと聞いている。
小野前会長は御自身の健康上、この時を最後の仕事と是められていたに違いない。
平成28年12月13日、御逝去された。
刀剣美術誌上で、新刀剣博物館の記事を目にする度、御尊顔が浮んでくる。
実は私は小野前会長より三才の年長である。
もう晩年に近く、手元に残っている時間は少ないが、小野前会長と会え、濃密な時間を持たせていただいた事で、私の残りの刀剣人生をより充実したものにできると確信している。
<忘れられない人>増えることがいいのかどうか解らないが、小野前会長は数少ない<忘れられない人>になられてしまった。
一周忌の追悼文をホームページに書くと、岐阜の近藤さんに告げたところ、私より一歩先に、いっしょにホームページにアップしてくれと、哀悼文をメールされてきた。
よって二人分をアップした。
博多支部 米田一雄