日本刀は古くからわが国が誇る鉄の文化財です。
四方山話10 処女峰アンナプルナ
12月15日朝日新聞にて、仏人モーリス、エルゾーグ氏の訃報に接した。
人類史上、14座有る、8000メートル峰のうちアンナプルナに最初に登頂した、
フランス隊の隊長であり、ルイ、ラシュナル氏とともに山頂に立った登頂者である。
「処女峰アンナプルナ」はエルゾーグ氏による、アンナプルナ登頂記で、
若き日の私のバイブル的な書物であった。
ルイ ラシュナル、リオネル テレイ、ガストン レビュファ、ヨーロッパアルプスの
超一流のガイドが登場する。
まだ探検の要素が強い頃のヒマラヤで、悪戦苦闘するフランス隊の記録に
身震いする程興奮したことを未だに憶えている。
その頃私は雪山を目指しはじめていた。
まだ、厳冬の冬山は、想像の域を超えておらず、恐怖と憧れが入り交じった
不安定な状態であったから、処女峰アンナプルナは、まさにバイブルとなり、
冬山への憧れは大きくふくらんでいた。
さて、雪山に向かうとすると、無積期の山登りとは、装備が変わる。
詳しいことは解らずに、雪山登山の象徴となる。ピッケルが欲しくて々、たまらなくなる。
先輩達のピカピカに磨かれたピッケルを、うっとりと眺めているうちに、何とか手に入れようと
夢をみることになる。そして私が欲しかったのは、フランス製、シモン アンナプルナに
しっかり連れて行った。ただし、学生の身には高価すぎて、とても手が出ない。
親にも頼めるような代金ではなかった。
しかし私は一年掛かったけれど、仏製、シモンスパ-Dを手に入れた。
努力の末の結果では無い、支払い能力など考えもせず、スポーツ店に頼み込んで、
あきれられ、あきらめられて、発注してもらう。待ちに待って手にいれることができたのである。それから支払い終わるまでさらに一年掛かった。
永い登山活動の中で、何本かのピッケルを手にした。2本目がやはりフランス製。シャルレスーパーコンタ、3本目もフランス製シモンMK2。
山登りをやめるまで、私のピッケルは全てフランスの物だった。
登攀中はピッケルはひどい扱いを受ける。いつも最前線で手となり、足とならされる。
それは苛酷なもので、一回の登攀で傷だらけになるのが常であった。
それでも下山後はピカピカの状態にしていた。単なる道具なのに、凍り付いた岩壁の中では最もたよりになる友であり、ほとんど一心同体と感じ、半端でない感情移入していた。
現代まで数多く残されている日本刀は、鎌倉時代以後連綿と続く武家社会の中で武士の心のより所となり、いざ鎌倉、いざ戦場となれば、一心同体、我身と運命を伴にする
精神性の高い存在として、大事にされていたのではないだろうか、
元和以降、戦いらしい戦いの無くなった時代になっても永く保存されたのは、
その精神性の高さゆえと思われる。
美術刀剣として、たずさわる現代の我々は永い々、日本刀の歴史を武士の心意気、
精神性の高さのゆえと心得ていなくてはならないと思う。
でなければ先人に対しても、刀そのものにも、礼を失することになるのだろうから。
シモンMK2を物置の中から取り出してみると、ブレードの部分がしっかり錆びついている。
山を降りて5~6年になる。この正月はピッケル磨きをするつもりです。