日本刀は古くからわが国が誇る鉄の文化財です。

四方山話5 妄想が走る

2012年08月27日 更新

日本刀には、平安時代より作者銘が入っている。
当時の古香な銘文は万人を魅了し珍重されている。
平安時代の日本語がどのようなものであったのか私には解らないが漢字にての銘は刀匠の社会に於ける位をうかがうことができるのではないかと思う。

時代が下がると、受領銘を冠した銘文さえある。(和泉守○○等)
職人をだいじにする日本の風は刀鍛冶に限らないかも知れないが、平安時代より連綿と作品に刻銘を残すのは刀だけではなかろうか。

茎(ナカゴ)が刀鑑賞のだいじな部分とされているのはこのことが有力な根拠のひとつになっているのだろう。

さて魅了され珍重される藤末鎌初の太刀、所望者も多いだろうが残された数が極めて少なく、収まる所に収まっており、強い希望があろうとも希望の枠を出ず、心安らかでいられるのは日本刀愛好家にとって幸せなことである。刀歴の永い人でも、藤末鎌初、生(うぶ)、在銘は夢の中の存在と見事に達観されている。

ところが、鑑定会や研究会で、たまに手にとって拝観することがある。
他に幾本か出展されていても眼に残るのはやはり最も古いそれらの太刀である。その存在は強い影響を残すらしい。

加齢のせいか、寝酒が足りなかったのか、眠れぬ夜をまどろんでいると、半醒の頭の中を、古備前が、古青江が、安綱が、行平が飛び交いだし、その真中でニヤニヤと笑って狂気乱舞する私がいる。

達観され幸せであるとは言ったが、しょせん小人の性(サガ)、寝酒不足が妄想を生み、みっともないことになる。

しかし妄想も悪くない。誰に迷惑を掛けるでもなし、半醒だろうと夢の中だろうと、幸福であることには違いない。

幸薄き人の世である。かようなことは大いに許されるべきである。
しかし藤末鎌初は素晴らしい。古稀に近い私を狂わせておいて、近よる素振もみせない。