日本刀は古くからわが国が誇る鉄の文化財です。

四方山話9 昔は刀が高かった

2012年11月30日 更新

日本経済新聞に浅田次郎さんの黒書院の六兵衛が連載されている。
江戸城明け渡しを数日後にひかえた幕末も幕末、徳川二百六十五年の終わりの頃のことである。

城内に一人座り込む、御書院番士の六兵衛の刀についての記述が面白い。どんな説得にも応じない六兵衛のせめて、唯一の武器である。小さ刀を取り上げたところから、刀の話になる。登城の際には大刀を預けて小さ刀のみ腰にする。その刀預かり所の話である。

預かり所にはベテランの刀扱いに慣れた目利きが居り、六兵衛の差料に興味を持った用人と二人、大刀を抜いてみると、これがどうやら肥前忠吉、それも初代と見えるとほのめかしている。
さて小さ刀は殿中差し、一尺四寸位が定寸らしい。そこでこれもちょっと抜いてみると、その出来は大刀と寸分変わらずとなり、さては脇差の定寸一尺六寸~七寸を、磨上げたとみて、二人はびっくりする。

何故びっくりしたかと言うと、初代忠吉を所持していることさえびっくりなのに揃いの大小のうち小刀の方を磨上げ、殿中差しの小さ刀にしていることに再びびっくりしたのである。

つまり御書院番士程度の旗本に初代忠吉が持てるはずもなく、まして脇差しを磨上げるなど、想像もつかないことなのである。それ程、初代忠吉は高価であったのだろう。

小説や映画、テレビで時代物は多いが、刀に関する話は感心できない物や、笑ってしまうようなことが多い。

幕末物に限らず、足軽程度や、下級武士が正宗を振り回したり、備前兼光、はなはだしいものでは藤末鎌初の太刀を差している。

浅田さんが書いている初代忠吉はまことに結構な引き合いで刀好きにはこたえられない扱いである。

さて初代忠吉が高価だあるとして、いったい刀の値は幕末頃でいか程したのか、がぜん興味がわく。

磯田道史さんの「武士の家計簿」に頃も同じく幕末に脇差しを売る場面がある。

加賀藩の下級武士猪山家が借入金の返済の為、脇差一本を売っている。代は銀150匁、磯田さんは銀1匁を4.000円として計算している。つまり売却した脇差は600.000円となる。この脇差の詳細は記されていない。しかし猪山家では家財をことごとく売り払い、借金返済に取り組んだが刀は最後まで手を触れていない。

磯田さんが、このことに触れてくれたことには感謝したくなる。

さてこの売却された600.000円の脇差の詳細はわからないが、下級武士、借金まみれの猪山家によもや初代忠吉クラスがあったとは考えられない。
五十石取りの武家の脇差しが600.000円、昔の方が刀は高かったとは時々聞くが納得できる。ましてや初代忠吉である。

江戸城詰めの武士が、驚きびっくりしたのもうなずける。

初代忠吉を御所持の皆様は思わずニッコリされたことでしょう。
大名気分をぞんぶんに味わって下さい。
ただし、その初代忠吉は間違いないでしょうね